藤澤さんとの思い出

                                  横谷冨士男
                         
 (元クリスタ長堀施設管理部長)  

私は、今でも藤澤さんが亡くなったなんて信じられません。何か頭の中に霧がかかったような感じがします。
 確か、お腹が痛いと言っていましたのは平成14年の秋、関西道路研究会の橋梁委員会で名古屋方面に視察に行ったときだと思います。その後、まもなく都島の総合医療センターに検査入院され、私もお見舞いに行きました。奥さんもご一緒でしたが、退屈でしかたがないと何時ものように明るく話されていました。
 その後、治療の合間には、OBIG(大阪市橋梁技術交流会)の昼食会にも時々顔を見せられ元気に病状を話されていました。こんなに早く逝くとは思いもよりませんでした。

 藤澤さんとの出会いは、私が建設局の橋梁建設事務所に転勤しました昭和54年頃からだと思います。その後、橋梁の仲間という関係でお付き合いを頂きました。
 藤澤さんには、私が交通局から転勤してきましたので橋梁についての知識が十分でなかったため、手取り足取りご指導を頂きました。今となっては、お礼を申し上げることも叶わず残念です。
 藤澤さんのあの笑顔、私の脳裏には鮮明に残っています。
関西道路研究会や橋梁委員会の視察で、東北、北海道、あるいは沖縄に行ったとき、そして最後となった名古屋、何時でも視察を終えての懇親会では、若い方達と肩を組みカラオケを熱唱されておりました。
 OBIGで若狭に行った時は、藤澤さんにお世話になった宿舎で腹一杯カニを食べ、その後、何時ものようにカラオケとなりました。藤澤さんと私は、肩を組んで声を張り上げて歌いました。私の机の引き出しには、共に写りました写真が残っています。
今一つ、藤澤さんから戴いた手書きの封書、思い出の品物として大切に保存しています。

藤澤さんは、ゴルフは苦手でした。ご一緒したこともありましたが、ゴルフでなくゴロフでした。練習場で指導を受けたらしいですが、あまりにも上達しないので、指導員から真面目に練習するように注意されたと苦笑いされていました。
 藤澤さんとの思い出は尽きないですが、あの笑顔を忘れず、私もこれからの人生を過ごしたいと思います。

心からご冥福をお祈り致します。   合掌。



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