藤澤さんと私
石岡英男
(大阪市公園協会専務理事)
藤澤政夫さんは、大阪市の橋梁技術者として、四年先輩にあたります。私が橋梁課に入った時は、万国博開催に向けて急ピッチで工事が進められていた、新御堂筋線高架橋の建設現場に勤務されていました。若い頃から、主に街路事業の橋梁・構造物の設計に多く関わってこられ、また工事現場の実務にも精通された、心強い先輩でした。
仕事で藤澤さんから直接ご指導いただける関係になったのは、昇格されて、臨港地域の橋梁建設現場に代わられた時からでした。私の担当していた橋の面倒をみてもらい、そのうちのひとつは、完成に導いていただきました。種々の打合せなどを通して、新しい知識や技術の吸収に向けた旺盛な意欲とともに、従来の考え方や手法にとらわれない柔軟な発想をもっておられたことに、よく驚かされたものです。技術的なことはもちろん、なかなか書物では学べないような実務的な事柄など、色々とご教示を受け、勉強させていただきました。
また、工事の検査を担当されていた時期がありました。正式な調書とは別に、不備な点や不都合の点などを細かく記されたメモ書きを、よくいただいたものです。恥ずかしかった思いとともに、非常に有難かったことが思い出されます。
先輩を批評するのは失礼ではありますが、明るくて温厚で、親切で誠実で、ざっくばらんな発言(時には、にこにこしながら「言うたらあかんかったかな」)。
このような人柄にひきつけられるのは、私だけではないと思います。それでいて、非常に気配りをされていることも、よく感じられました。また好奇心も強く、少し興味をもたれたら熱中され、しかもすぐに自分のものにされてしまうのですから、その能力たるや羨ましい限りでした。
平成に入って橋梁課長になられましたが、それ以来ずっと、結果的に私は藤澤さんのポストを追いかける形となりました。立体交差課から橋梁課へ、そして土木技術協会へと、不思議な御縁を感じます。それぞれの業務の引継ぎを通して、その間の大変なご苦労の足跡を、その都度目のあたりにしたものです。
街路事業では、それぞれに課題を抱えて難しいものが多くありましたし、また橋梁事業では、財源確保がままならず長期化している橋もありました。それらを精力的に、忍耐強く着実に解決され、また新たな財源を獲得するために、工夫と努力を重ねてこられました。私は、藤澤さんが敷いてこられたレールの上を、ただ進むだけでよかったのです。わからないことや相談したいことがあれば、いつでも気軽に話を聞いてもらえ、親身になって意見を言ってもらえる。そのお人柄についつい甘えてしまい、ご迷惑だったでしょうが、ほんとうに心強い限りでした。
土木技術協会では、設立二十五周年記念事業の一環として、「大阪の橋〜大阪における橋梁技術のあゆみ〜」が発刊されました。その編集作業の中心となられ、戦後の橋梁を総括した有意義なものを残していただきました。
平成十年に大阪市を退職されて以降も、優れた技能と持ち前の行動力で、様々な分野で活躍されていました。
数々の業績を残された貴重な先輩を、このように若くして失ってしまったことは、非常に残念でなりません。
生前、大変お世話になったことを、深く感謝申し上げますとともに、ありし日の藤澤政夫さんを偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。