若き日の藤澤さんの思い出
濱田圭一郎
(元咲くやこの花館長)
藤澤さんの思い出は、やはり若き日の橋梁課でのことである。私は昭和39年に土木局橋梁課に配属されたが、一年先輩に藤澤さんが居られた。
それ以後、4〜5年間彼と一連の仕事を二分して担当することとなった。例えば、中之島を挟んで同じ路線の常安橋を藤澤さんが、玉江橋を私が、設計するという風であった。
当時、千里の万国博を控えた時期であり、関連事業として、新御堂筋線高架道路の設計を二人で行うことになり、新淀川の北岸から北へ吹田市域までを彼が、それより南へ梅田新道付近までを私が、担当することとなった。設計と発注を行った後、御堂筋建設事務所が新しく設置されたことに伴い、二人共そこへ赴任し、自分で発注した工事の現場監督を行うこととなった。私にとって、最も猛烈に仕事を進めた時期と記憶しているが、彼もそうではなかったかと思う。
彼が当時から車を持っていたこともあり、遊びにも連れていってくれた。或る夏、琵琶湖付近の彼の親戚(?)の家での泊りがけの集まりに誘ってくれた。彼のお姉さんご夫妻にことのほかお世話になり、昼は川で、投げ網で魚を取ったり、夜は酒盛りなどで大変楽しく過ごさせていただいた。明くる日も朝から、彼の義兄さんが当然のようにビールをポンポン抜いて、瓶がどんどん並んでいったことには少し驚かされたが、何故か印象に残っている。
橋梁課の仲間とも遊びに行ったが、そのうちの一つ。テントを車に積んで、4人で日本海側に出掛けた。海岸線の山道で、くねった地道を彼が運転していた時のことである。急にザザッとスリップしたかと思うと、激しく音を立てて蛇行を繰り返し、転落寸前で車は止まった。皆生きた心地はしなかったと思う。このことを、去年病院にお見舞いに行った時、藤澤さんは「あの時は恐かったわあ」と当時を思い出していた。写真は、その時の天の橋立でのスナップである。
懐かしい思い出の一端を記させていただいた。
左より、芦見さん 濱田 町川さん 藤澤さん(昭和40年頃)
藤澤さんは、私にとって「癒やし」の存在であったように思う。それは、彼の優しさと懐の深い人柄によるものではなかったかと思っている。
大阪市を退職して同じ業界に入り、最も頼りにしていた彼がこんなに早く逝ってしまって、無念というほかありません。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。