藤澤君を偲ぶ

                                     谷平 勉(近畿大学)

 昭和38年卒業者23名、大阪市立大学工学部土木工学科卒業生で作る土木会名簿に記載されている数です。日本の大学進学率がまだ一桁であったころで、今に比べてずいぶん少ない。入学は34年、同期で入った中に藤澤政夫さんがいました。現役組です。浪人組との間にたいした差があるわけではないが、彼の場合特に童顔であったせいか、若さが目立ちました。わたしは生まれ月が3月、いわゆる早生まれで、小学校入学以来ずっと心身とも未熟であったために大学に入ってからも同クラスでも年長者には気後れが激しくて、普段の付き合いはおとなしそうな人が多かったように思います。藤澤君との付き合いもそういった気分からであろうと思っています。彼は私と同じというわけではなく年のことなど考えずにいつもフランクに人付き合いしていたようです。私は合唱のクラブに入って学生生活の大部分をそこで過ごしましたし、卒業研究も私は構造、彼は土質という風でしたので、クラスでの付き合い以外は彼との共有する思い出というのはあまり多くはありません。彼も私もおとなしくてまじめでしたから、クラスで遊びに行ったり見学旅行などでも、はめを外したり、悪さをしたりというようなことから起こるエピソードといったものにはほとんど無縁でした。思い出そうとしても思い当たりません。

 4回生になり卒業研究にかかり始める頃就職の時期になるのは今も同じようなものです。当時は就職に関しては全く恵まれた時期でした。今年表を繰ってみると昭和37年という年は、ベトナム戦争、キューバ危機、ケネディ暗殺(s38)水俣病やサリドマイド禍など暗い時代ではありましたが、堀江謙一太平洋横断、金田正一奪三振世界新、等というニュースもありました。池田首相の「国づくり」懇談会が始まり、高度成長政策(所得倍増s35)が動き始めた頃です。土木でいえば、国鉄北陸トンネル開通、電発奥只見発電開始、黒四完成(s38)、名神高速が山科あたりができあがり、見学に行ったときにバスが下り坂で時速100kmを出したと歓声を上げたのを覚えています。こういう時代でしたから、就職は選り取りという有様でした。大阪府、大阪市はどちらも2人の枠があり、彼は難なく大阪市に就職したのです。  このあたりに関する詳しいことはもう一人の廣海氏が書いているかもしれません。配属は土木局橋梁課。ここは八百八橋の大阪の伝統ある老舗で、明治時代からつづく橋梁技術の牙城でありました。彼は卒業研究が土でしたからまさか橋に行くとは思っていなかったという回想を聞いたことがあります。実は私も内心大阪市を考えていたのですが結局手を挙げず、助手に採用してあげるという引きに乗ったのです。結果は共に大阪市から給料をもらうということになったのですが。もしあのとき2人のうちの一人になっていたらたぶん私が橋梁課を希望したでしょうから、藤澤君と同じ道を歩んだことと思います。

 卒業後は互いに自分の仕事に夢中で、交点はありませんでした。関わりが出来たのは、私が関道研に参加するようになってからです。大阪市土木局が幹事をする関西道路研究会の中で、特に道路橋調査研究委員会が最も活発な活動をしていましたが、その中の接合小委員会が彼が最も活躍した場です。技術的には係長時代の油の乗りきった時期にあたります。鋼橋の接合に使われる高力ボルトが、6角頭高力ボルト時代からトルシア型ボルト時代に移り変わる舵取り役を彼が果たしたことになります。我々の世界では技術の転換期には高度な判断を下せる有能な役人を必要とします。リスクを被ることを厭わない、そういう気概が必要になります。彼とトルシア型ボルトとの関わりはそういった間柄であったのです。彼が橋梁課の課長になってからは関道研全体の運営に拘わっていき、技術の最前線からは遠のいていきますが、奇遇なことにそのころから私が、接合小委員会に拘わっていくことになったのです。

 私的な面での交流が始まったのはそれから何年か経ってからです。金曜会というのがあります。そのころ大阪で、土木で、橋関係、といえば答えは金曜会です。昭和40年代に大阪の鋼橋技術畑で個人的な交流が始まったのが金曜会の起こりだと聞いています。私がそれに参加しはじめたのは私が40歳になってからのことです。金曜会に参加しないかという誘いと、ゴルフを始めないかという誘いとは私にとって同じ意味を持っていました。藤澤君が金曜会に出始めたのは土木技術協会に出た頃だったでしょうか、時間的精神的余裕が出来たのでしょう。また公私の関わりがなくなって来たからだと思います。彼が金曜会に入って、出色の出来事は無線免許をとって、無線あそびをし始めたことです。子供時代からのハムである中村氏の先導で全員が勉強して免許取得、車数台で信州を走り回ったのが楽しい思い出です。無銭旅行だけでなく、BBSが流行りだした頃で、金曜会の連絡は無線連絡でした。インターネットが普及するまでの間、無銭交信が活躍してくれました。
舌ガンのあと、会話にはずいぶんハンデであった彼がハム仲間を拡大して、よくまあ、交信するのです。彼が本質的におしゃべりであることが発見でありました。のちに1級までとったのですから、ハムに入れ込んだおしゃべりは本物でした。
 彼も金曜会でゴルフを始めます。好奇心は人後に落ちないものがありました。リタイア後の営業にも使ったでしょうから、仕事熱心であるともいえます。
あるゴルフの会でともに還暦祝いの赤シャツをもらったことがありました。
うまい下手にはとらわれず、タンタンとゴルフをしている藤澤君を見ていると、ゴルフっていったい何なんだろうと、今頃になって思えてきます。あの赤シャツは保存版にしようと思っています。
 
 彼も60歳を超えた人生を味わったわけですから、人生わずか50年という時代から見れば、十分世間を体験したといえます。ある意味で効率よく燃え尽きた、と見ることも出来ます。彼に心残りがあったとすれば、家族を含めた余生を楽しむ時間を天は彼に与えなかったということだけでしょう。
 藤澤君これもひとつの天寿と思って天国から見守ってください。見守るだけでなく、メールやメッセージを送って下さい。天国でのメールアドレスを聞いておくのを忘れいましたが、あなたのことだ、きっと気の利いたアドレスで送ってくるでしょう。待ってますよ。

  
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