電脳師匠、藤澤さん

                                      西村増雄(Hitz日立造船顧問)
                                                 
 電脳とは、ご存じ中国語ではコンピューターのことです。そうです、藤澤さんは私たちにとって、かけがえのないコンピューターのお師匠さんでした。
 一太郎で簡単な文章を作るだけ、エクセルに至っては、使う機会がないものだから身に付かず、表の作成も結局は罫線で済ませていた私でしたが、藤澤さんと机を並べるようになって3年、私のパソコン力をもずいぶんと付けていただきました。
 スキャナーで取り込んだ写真や図形を、加工して張り付けたり、それをメールで送ったり、インターネットを駆使したりと、格段に力を付けていただきました。
 藤澤さんは単にパソコンを使うだけにとどまらず、機械そのものにもたいそうお強い人でした。ご自分の使っておられたものは、自作のものでしたし、私たち顧問9名(平成12年当時)の机上のものもすべて、どこかは必ずお師匠さんの手を煩わしたものでした。
 故障したり、古くなったりで破棄される旧型機械を貰い受けてきてはこっちの機械から使える部品を取り外しては、あっちに付け、何台かから使える一台として再生させ、会社のコンピューターがまだ各人に一台ずつ行き渡っていなかった頃でも、顧問室では各人に行き渡っていました。その後も機会あるたびに破棄機械から使える部品をはずしてきてこっちの部品と交換しくださり、これであなたの機械はこのくらい能力アップしましたよと言ってくださったことも再三でした。
 そのようにして私の机上の機械も入社三年にして三代目、今ではようやく全部が藤澤さんの手が入らない、すなわち丸ごとメーカー製のものになっています。


 和歌山や、府立の寝屋川の高専の先生もされておられましたが、橋梁工学の授業でCADを使っての設計製図も課されていたようです。私もここに来る前は、大学の非常勤講師をしていたときもありましたが、あのころに藤澤さんと知り合っていたら苦労したレジメの作成ももっと楽できたのになと思ったものです。
 藤澤さんとの出会いは今の会社へ来てからですが、お話を聞くと昔30数年前、接点があった可能性もあるのです。新御堂筋建設の頃、藤澤さんは大阪市の建設事務所、私は府の本庁及び現場と、共通の仕事なのにニアミスのすれ違いに終わっていたのが残念です。
 会社の若い人たちもしょっちゅうコンピューターの相談に彼の机を訪れていました。机が隣り合わせの私に漏れ聞こえてくる様子では、それは相当高度な事柄のように見受けられましたが、私の場合はそんなレベルの話ではなく、初歩の初歩のことまで頼りっきりでした。
 パソコンというのは、本当に難解です。あのカタカナの用語は私たち古い世代にはさっぱり判りません。したがってヘルプをクリックしても、書いてある内容が理解できず、助けは何もないのと同じことなのです。
 立ち往生したときは、作業続行をあきらめて、藤澤さんのお帰りを待つしかないのが常でした。藤澤さんは私にとって師匠を越えた「脳」、文字通り電脳師匠そのものの方でした。

  今回の発病に際しては、自分は15年に一度大病を患ったけど・・・と、淡々と述懐しておられた藤澤さんでしたが、また15年になる今度ばかりは生還ならず、神様からも見放されたのがかえすがえすも残念です。
 もう一度、出社するんだと頑張っておられたのに二、三度来られたきり、姿を見せなくなった藤澤さん、同病を克服した人たちの会合にも出て治療法を模索しておられたときいておりましたのに、こんなに早く逝かれるとは。
 まだお若く、本当に惜しいことでした。
 最後のご様子は、会社のT部長からのメールで知りました。藤澤さんのお人柄と人徳を偲ばせるご様子に深く感動しました。プライバシーのことも入っていますがお許しいただけるものと考え、ここにご紹介いたします


 Subject:藤澤政夫さんの最期
  Date:Wed.27 Aug 2003 08:38:30 +0900
  From:T部長
 To:関係者のみなさん

 藤澤政夫さんの友人である皆様へ

   藤澤さんが亡くなって一週間が過ぎました。
   妻のきみ代さんから藤澤さんの最後のご様子をお話ししていただきました。
   まるでドラマのようなので筆を執りました。

   医者は反対したけれど、藤澤さんは死を予感されていたようで、娘さんの別荘
   に8月2日に行かれました。         
   医者には、拝み倒して言い分を聞いてほしいと。「せめて死に場所は自分自身
   で選びたい」とまで言われたようです。
   別荘は、昨年、娘さん(ご存知のキャスター:藤澤久美子さん)が買われる時、
   騙されてはいけないと契約に立ち会われました。
   富士が一望されるので藤澤さんもたいそう気に入られたようです。

   別荘へは新幹線から支線まですべてベット付きの席を予約して行かれた様で
   既に体は弱っておられたようです。
   別荘につくと、雲に覆われた富士が嘘のようにからっと晴れ、富士の絶景が見
   えたそうで藤澤さんは手を叩きたいへん喜ばれたそうです。

   当地では、食事も三度され、食欲も出たのですが、一週間ほどで調子が悪くな
   り、ホスピスを兼ねた病院に入院されました。
   いい先生に恵まれ、治療をうけられたそうです。しかし、だんだん言葉も少なく
   なり危なくなってきたので、死の三日前、かねて婚約中のご子息である正樹さ
   んの結婚式をホスピスで挙げられたそうです。 息子さんはタキシード、フィア
   ンセは花嫁衣裳。 病院が結婚式場になりました。
   病院の先生も白い服でなくフォーマルな式服で対応されました。藤澤さんは眼
   にいっぱい涙をうかべておられたとのこと。


   正樹さんは9月5日(正確でないかも)に結婚式を控えておられ、藤澤さんはそ
   れをなんとしても乗り越えようとしておられた。
   この粋な前倒しの結婚によって安心して氏は逝かれました。また、喪中なので
   結婚式は延期にするのが普通ですが、同日に披露宴を挙行される予定。

   藤澤さんが息を引き取られ、病院から生駒の御家まで車で9時間運ばれたそ
   うですが、途中遠回りして、死にたいと言われた別荘に立ち寄られたそうで
   す。
   そうしたら、運悪く雲に覆われた富士でしたが、不思議なことに、再び氏に挨
   拶するように、きれいに晴れ上がったそうです。
   皆が抱かえて藤澤さんの顔を棺から出し、富士を眺めさせてあげたそうです。
   氏もきっと満足だったでしょう。

   そんな訳で、藤澤さんは心やすらかに天国に召されたようです。
   ご冥福を皆様と共にお祈りします。

   平成15年8月26日寂夜


 というものです。涙無しにはとても読めませんでした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

              

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