今にして思えば
みなさんに早く書け書けとしつこく催促しておきながら、私自身はなかなか手が着かなかった。こんな勝手なことが誰にも知られずにできるのは、編集担当者の役得というべきか。言い訳から始めるというのも何となく後ろめたいが、筆不精というわけではなくて、思い出すことが多すぎるために何を書くのがよいか、なかなか決めかねていたのである。しかし、こういう場合のいつもの手段で「何でもええから書き始めろ〜」と・・・。
「第一話」
後日、再登庁された際に“お見舞状だけの非礼”を弁明したが、「金山さん、それが一番ありがたいです」と明快な応答であった。曰く「手術後の来訪は最大の苦痛」「病室での営業活動は非礼」「自宅療養時の営業情報収集は非常識」ということではあったが、その口調は淡々としたもので、決して恨みがましいものではなかった。 そのときの彼の口調や表情は、なぜか今も私の印象に深い。
「この人は、どこまで心やさしいのだ〜」
しかし、それらは見えないストレスとの置き換えではなかったのか。
“佳人薄命”とは、単なるコトワザではなくて“医学的立証事実”では?
「心やさしいみなさん! くれぐれも要注意ですぞ!」
「第二話」
CVVにボランティア協力の要請があった場合に「それを請けるべきかどうかの判断基準は何か」。また「謝礼を出された場合に、受け取るべきかどうか」ということが問題になった。
藤澤さんの考えは、「要請側が営利を得る場合は、請けるべきではなく」また「ボランティア活動では、お金は受け取るべきではない」ということであった。
現実はどうかというと、要請を断った例はないし、謝礼が出る場合には遠慮なく受け取っている。これは藤澤さんも納得の上のことであるが、彼の考えはその潔癖性を物語るものであるとして、紹介させていただいた。
余談として言うと、「事業者はそのイベント自体で利益をあげなくても、将来的なプラスをねらっている場合もあるから、営利のイベントであるかないかの差は紙一重ではないか」ということもあり、「イベントの内容が市民に有益なものであれば、協力する価値がある」という論理を優先させたものである。
また謝礼に関しても、「そのお金を有効に遣って、ボランティア活動のさらなる発展をめざすことが賢明であろう」という判断に立っている。
「第三話」
私がCVVの事務局を担当することになった、昨年(平成15年)5月のことである。かねてから気になっていた“CVVメールに全く登場しない人”にも、メール発信をお願いしたいと思った。
私自身、もう一つ別のメーリングリストに加わっているが、このほうはほとんどROMにちかい。高校同期会のMLで、親睦目的100%のものである。したがってメールの中身は、時局放談・映画評や書評・自庭の季節の花・海外旅行・メール句会など多方面にわたっており、高尚な話題や知識に乏しい私はなかなか話の輪に入りずらい。
その苦境を救ってくれるのが、ML管理者のROMへの呼びかけメールである。
そのときだけは、話のタイミングを気にせず“義務だから”という顔をして、発信することができる。
いささか前置が長すぎたが、そういう私自身の経験から“呼びかけの有効性”を期待して、上記の行動に及んだ。リストの順に、名指しで呼びかけメールを送った。
十人ばかりに送信した段階で、藤澤さんからクレームがついた。「個人アドレス宛に送るべきで、メンバー全員には知られないようにすべきだ」というわけである。ここにも藤澤さんの“心やさしさ”が、十二分に見える。
私は、即刻“呼びかけ事業”の中止を宣言し、全面的に止めてしまった。
当初から、“刺戟性”を期待して、敢えてML送信を断行したものである。今さら、効果の期待できない“個人アドレス宛送信”をする気にはならなかったからである。
それに、闘病中の藤澤さんに余計な心配をかけてしまったことへの反省も、少しはあったからである。
しかし、またぞろ始めようかとも思う。大いに、世にはばかるためにも。
前へ 第一部の目次へ 次へ