藤澤政夫様を偲ぶ
廣海泰次郎(元大阪市)
貴方と私のお付き合いが本格的になったのは、昭和35年の正月、貴方が年賀状をくれたときから始まったと記憶しています。
そのときの賀状は、平凡なものでしたが、その隅のほうに、「古い年賀状ですみません」と書いてあり、よく見ると、そのはがきは前年正月用のもので、思わず笑えてくると同時に、なんと言うか、そのユーモラスな行為に「こいつは面白いヤツや」と近親感をいっそう深めてものです。
このように貴方は、誰にでも気さくに、愉快に付き合っておられましたね。だから、貴方を敬遠する人などいなかったし、みんなに愛されたと思います。
貴方はまた、現実を直視し、難しい場面にも積極的に対応してこられました。
貴方が大阪市役所に入庁したとき、それまで好きでもなかった橋梁の仕事を命じられ2〜3日は随分うっとうしい気分でいたように思いましたが、半年もしないうちに、橋梁大好き人間になって、色々な形式の橋に設計、施工の面で奮闘されていたことを記憶しています。
千本松大橋の現場経験のあと、貴方は胃潰瘍になられた、おそらく気苦労も多かったのでしょう。学生時代、私が消化剤を持って一緒に旅行したとき、あなたは「そんな粉飲んでどないすんねん・・・」とよく笑ってくれました。
いつも貴方を自分より一枚上手と意識していた私は、そのとき初めて勝ったと思ったものです。考えて見たら、貴方はいつも私のある意味でのモデルでもあったわけです。
しかし、その後、意外にも貴方は難病に見舞われましたね。それでもその難局に積極的に対応されました。よく耐えられましたね。
最後の病魔にも果敢に挑まれました。私が素人ながら最後を慮り、石切神社にご祈祷をしてもらって、そのお守りを持っていってあげようか、私の出来ることはそれしかないと思って、遠まわしに話してみたのですが、貴方は強く生きる勇気を私に話されたので、「この人は本当に強いな、・・・」とつくづく思いました。
よく生きられました。最近、鎮痛剤による治療が普及していると聞いており、それを十分してもらっているだろうな、とそれを期待する日が、私も続きました。しかし・・・、よくがんばられましたね。貴方は偉かった。
貴方は、最後に日本の山「富士」を見て一時癒された、と聞きました。
私たち、写真をするものも、正月の休みに、富士を見るため、わざわざ徹夜してまで出かける者もいます。日本の山「富士」の魅力なのです。
私の最後のプレゼントとして、私が撮影した、そして貴方が見た夏の富士とはまた違う「ミレニアム元旦の富士」の写真を、ここに贈ります。
[編集者註:上記の写真は、表紙に載せました]