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[ 見学地の解説(4) ]
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(平尾修一著「上町台地の緑の森を訪ねて-パート4-」より抜粋引用)
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(画像をクリックすると大きな画像が見られます)
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(35) 極楽橋
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本丸の北側、山里丸から二の丸への内堀に架かる橋である。
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かって、本丸の位置に大阪(石山)本願寺の御堂があり、そこには阿弥陀様がおら |
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れ、極楽浄土へ行けるということから、この名前がついたといわれる。 |
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維新の際、ここにあった山里門と共に焼失していたが、昭和40年(1965)に、現在の |
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鉄筋コンクリートの橋として再建された。 |
極楽橋
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(36) 青屋口門
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大阪城の四つの入り口の一つで、大阪(石山)本願寺の御堂の |
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周囲の町名に「青屋町」という名前があったところから、この名 |
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がつけられた。 |
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門の上には、多聞櫓がある。 |
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明治維新の際、大火のため半壊状態になって放置されていた |
青屋門
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青屋門説明標
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が、昭和44年(1969)に、残された材木を使って再建された。
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(37) 大阪砲兵工廠跡
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明治3年(1870)2月、大阪陸軍造兵廠が大阪城三の丸跡に創設され、大阪造兵司と称し兵器製造の作業 |
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を始めた。その後、大阪砲兵工廠と改称され、戦前は、約40万坪の敷地に軍事関連施設が置かれていた。
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昭和20年8月14日、アメリカ軍の大空襲を受け、施設で働いていた多くの人が亡くなった。 |
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昭和34年8月14日、大阪廠友会の手で、大阪陸軍造兵廠碑が建てられている。 |
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(38) 砲兵工廠水門跡
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砲兵工廠に引き込まれた水路で、この水路を利用して、原料 |
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や製品が搬出入されたと思われる。 |
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戦時中の地図では、公にされていない。 |
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砲兵工廠水門
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砲兵工廠水門(対岸より)
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(39) 新鴫野橋
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鴫野橋は、大阪城三の丸から対岸の鷺島(弁天島)架けられていた橋で、公儀橋であった。 |
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戦時中は、陸軍により管理されていたが、戦後、大阪市に移管されたとき、「新鴫野橋」と名づけられた。 |
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昭和63年(1988)、現在の鋼桁橋に架け替えられた。 |
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(40) 弁天抽水所(ちゅうすいしょ)(見学)
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(説明内容は、大阪市下水道局のパンフレットによる)
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弁天抽水所は、大阪城のすぐ北側、寝屋川と第二寝屋川に囲まれたところにあり、天王寺〜弁天幹線に |
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集められた雨水を大川(旧淀川)へ配水するポンプ場である。 |
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天王寺〜弁天幹線が、最深部で地下30mにもなっているため、大部分が地下構造となっている。 |
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建物は、地上1階、地下5階建で、地下4、5階に雨天ポンプ室、雨水沈砂池が設けられている。 |
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地下30mに流入してきた雨水は、まず、格子状の防塵スクリーンで浮遊ゴミを取り除き、沈砂池で砂を沈 |
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殿させたあと、ポンプ室に送られ排水される。 |
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沈砂池に沈殿した砂は、スクリューコンベアで集め、揚砂ポンプで取り除かれるが、この砂を館外に搬出 |
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するトラック用の12トン吊りの大型エレベーターが設けられている。 |
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天王寺〜弁天幹線下水道
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弁天抽水所施設概要
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弁天抽水所断面図 |
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見学風景
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