|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
[ 見学地の解説(3) ]
|
|
|
(平尾修一著「上町台地の緑の森を訪ねて-パート4-」より抜粋引用)
|
|
(画像をクリックすると大きな画像が見られます)
|
|
|
|
|
|
(21) 桜門(重要文化財)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
本丸正面の門で、寛永3年(1626)に築かれたが、明治維新の |
|
城中大火で消失した。現在のものは、その後明治20年(1887)
|
|
に陸軍によって再築されたもので、重要文化財に指定されて
|
|
いる。
|
|
門の左右の石は、左が「虎石」、右が「龍石」と呼ばれ、それぞ |
桜門
|
説明板
|
|
れ15疊敷の大きさがあり、備前藩池田忠雄が運ばせたものである。
|
|
門の両側の塀は、明治維新の時消失したものを、昭和44年(1969)桜門修理の際、復元したものである。
|
|
[ 桜門の大石 ] |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
振袖石
|
蛸石
|
烏帽子石
|
|
(22) 大阪城に残る戦争の傷あと(説明板)
|
|
|
|
|
|
|
|
(23) 旧陸軍第四師団指令本部(前大阪市立博物館)
|
|
|
|
|
|
大阪城の南に位置する。
|
|
昭和6年(1931)に現在の大阪城が築城されたとき、同時に本建物も建築され、陸軍 |
|
第四師団指令本部が置かれた。戦後は、大阪市警本部の庁舎となっていたが、昭
|
|
和35年(1960)から平成13年(2001)まで、大阪市立博物館として使用された。
|
|
|
前大阪市立博物館
|
|
|
(24) 御金蔵(重要文化財)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
寛永3年(1626)に創建され、当初2階建てであったが、天保14年
|
|
(1843)現在の1階建てに改築された。
|
|
戊辰戦争の灰燼を免れた建物の1つで、昭和35年(1960)に解
|
|
体修理され、重要文化財に指定されている。 |
|
|
御金蔵
|
御金蔵説明板
|
|
|
(25) 明治天皇聖蹕之所(せいひつのところ)(碑)
|
|
|
|
|
|
|
|
聖蹕というのは、天皇がお出ましになったということで、明治元年4月6日、公家諸公
|
|
藩士等の乗馬や駆ける様を、この場所でご覧になったところから、この碑が建てら
|
|
れた。 |
|
|
|
|
|
明治天皇聖蹕之所碑
|
|
|
(26) 池泉庭園(紀州御殿跡)
|
|
|
|
|
|
|
戦後、米軍の接収中に消失した「紀州御殿」の池泉庭園である。 |
|
この池泉庭園は、「日本の緑百選」に選ばれており、写真愛好家が、大阪城の写真
|
|
を撮るスポットとしているところである。
|
|
|
|
|
池泉庭園
|
|
|
(27) 残念石(碑)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
天守閣の前(南側)に置かれている。
|
|
正しくは、「大阪城残石」と呼ばれ、元和6年(1620)から始まった
|
|
大阪城修築のおり、小豆島等で削られたまま残され、石垣の石
|
|
としての念願がかなわなかった石である。
|
|
右の大石は、黒田長政の石切場、左の小石は、細川忠興の石
|
残念石
|
残念石説明碑
|
|
切場にあったもので、小豆島青年会議所が10周年記念事業として、昭和56年(1981)7月に、小豆島から
|
|
運んできたものである。
|
|
|
(28) 大手前配水池
|
|
|
|
天守閣の東に隣接している。 |
|
明治28年(1895)に、大阪市の水道が建設された時に造られたもので、縦30m、横60m、深さ7mのものが
|
|
3池あり、全部で35,000m3の貯水能力を持つ。
|
|
柴島浄水場から送られてきた水を、この配水池に溜めた後、上町台地を中心とした区域に配水している。
|
|
|
(29) 1トン爆弾による石垣のずれ
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
昭和20年(1945)8月14日、大阪砲兵工廠への爆撃のおり、大阪城にも1トン爆弾が |
|
2発落とされたが、天守閣直撃をまぬがれ、天主台の石垣に落下した。その時の痕 |
|
跡である。
|
|
|
|
|
|
|
|
1トン爆弾の落ちた石垣
|
|
|
(30) 糒櫓跡(ほしいいやぐらあと)の石造物
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
江戸時代に本丸の周囲に建っていた11棟の三層櫓の一つで、 |
|
乾し飯(ほしいい=蒸して乾燥させた保存用の飯)が入れてあった櫓の |
|
跡である。 |
|
この櫓跡に、雑多な石仏、石碑が残されている。 |
|
|
正面
|
櫓台上
|
|
特に目に入るのが、「大林組」関係の一団の碑である。 |
|
これらの碑は、建立年月がはっきりしているが、碑群の中の一つに、先の(5)の項目 |
|
|
|
|
に出てきた「森定松之助」氏建立の碑がある。77歳(昭和15年)の時建てられたもの |
|
である。 |
|
氏が、要所に残された痕跡から、大阪城建設に情熱を注ぎ、工事の安全・完成を願 |
|
い、神仏の加護・感謝を忘れない敬虔な人柄であったことが窺える。 |
|
|
|
|
|
森定松之助氏建立碑
|
|
|
(31) 豊臣秀頼・淀君ら自刃の地(碑)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
秀頼・淀君らの自刃の場所については、諸説があるが、この山 |
|
里丸(曲輪)の一角にあった矢倉の中とする説が有力であるとし |
|
て、平成9年(1997)3月に、この碑が建てられた。 |
|
|
|
|
|
豊臣秀頼・淀君ら自刃の地碑
|
裏面
|
|
|
(32) 刻印石広場
|
|
|
|
|
本丸北部の広場にある。
|
|
徳川幕府は、大阪城再建にあたって、主に外様大名に手伝い普請を命じたが、その時大名から徴した石 |
|
材には、その大名の紋や奉行人の印、符号などが刻まれていた。 |
|
その後、城石の中には、傷みが激しく、剥落の危険性のあるものが出てきたので、元の石材と同じ産地か |
|
ら同じ形に切った新しい石と取替え修理を施している。 |
|
取り外した元の石は、貴重な文化財のため大切に保管されているが、それらの石のうち、刻印のある石を |
|
集めたのが、この広場である。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
刻印石広場碑
|
刻印石広場
|
刻印石説明板
|
刻印石(出雲・堀尾山城守忠晴)
|
|
|
(33) 機銃掃射の跡
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
天守閣の北、山里曲輪付近の石垣の下部に、第二次世界大戦の際のグラマン戦闘
|
|
機からの機銃掃射による弾痕が残っている。 |
|
|
|
|
|
機銃掃射の跡
|
|
|
(34) 真心(碑)
|
|
|
|
|
|
|
刻印石広場の一画に、「真心」と刻まれた小さな碑が建てられている。
|
|
ここには、女子防空通信隊(翼隊)の宿舎があったが、昭和20年6月1日の空襲のお |
|
り、焼夷弾により焼失した。 |
|
昭和41年11月に、生存の旧中部第三十五航空情報隊・女子防空通信手の有志の |
|
人々により、この碑が建てられた。 |
真心碑
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|