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[ 見学地の解説(2) ]
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(平尾修一著「上町台地の緑の森を訪ねて-パート4-」より抜粋引用)
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(画像をクリックすると大きな画像が見られます)
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(8) (大阪カテドラル)聖マリア大聖堂
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カトリック玉造教会の聖堂で、明治27年(1894)の創立であるが、
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昭和20年(1945)の空襲で消滅し、昭和38年(1963)1月に再建
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された。長谷部鋭吉氏の建築作品である。 |
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大聖堂の祭壇や壁面などは、すべてイタリア・クララ産の大理石
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が用いられ、祭壇正面には、「栄光の聖母マリア」、その左右の |
聖マリア大聖堂
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大聖堂内部
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壁には、死を前に最後の祈りを捧げるガラシアと、異郷にあって |
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遙かに祈りを捧げる右近の姿が、堂本印象画伯によって描かれ |
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ている。 |
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大小100の窓に施されたステンドクラスは、羽淵紅州の作。十字
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架や聖像は、オーストリアの彫刻家ルンガルチエの作。
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パイプオルガンのパイプ数は、2400本もある巨大なものである。
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高山右近像
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細川ガラシア夫人像
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この地が、細川氏の屋敷跡であったこともあり、カテドラル正面 |
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に、向かって右に、細川ガラシア夫人、左に、高山右近の立像
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が建てられている。
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教会の庭内に、ガラシア夫人記念碑が建っている。 |
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この碑は、昭和25年(1950)に、細川伽羅紗頌徳会の手で、夫人
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散華350年を記念して建てられたものである。 |
部分拡大
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ガラシア夫人記念碑
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同じ庭内に、ファチマの聖母と羊飼い像が置かれている。 |
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ポルトガルのファチマ村に住む3人の羊飼いのところに、1917年
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5月から10月にかけて、毎月13日の正午に、聖母マリアが出現
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し、祈りと苦業を勧めたという場面を現している。
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像は、イタリア、カラフ産の純白の大理石でできている。
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ファチマの聖母と羊飼い
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説明板
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(9) 青刻昆布発祥の地(碑)
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森ノ宮中央2の越中公園内にある。
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この地は、戦前まで、中嶋豊吉氏が青刻昆布製造業を営んでいたところで、大阪の |
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刻(きざみ)昆布が、明治33年(1900)に、国の重要物産品に指定されていたところから、
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大阪昆布商工業会が創立100周年を記念して、平成13年(2001)3月に建立したもの |
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である。
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青刻昆布発祥の地碑
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(10) 越中井
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越中公園内にある。 |
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この地に、細川越中守忠興公の屋敷が |
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があり、その屋敷の台所にあった井戸と |
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いうことで伝えられている。 |
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碑の左側面に、ガラシア夫人の辞世
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高札
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越中井
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越中井由来
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「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が刻まれている。 |
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(11) 難波宮跡東辺(碑)
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森ノ宮の大阪府立青少年会館西の、歴史遊歩道東側の歩道上に、大阪市が、 |
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昭和51年(1976)に建てた石板碑で、西方400mにある難波宮跡についての説明 |
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が彫られている。 |
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難波宮跡東碑前での説明
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(12) 森之宮遺跡展示室(森之宮ピロティホール内)
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森之宮ピロティホール内にあり、森之宮遺跡からの出土品が展示されている。
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大阪労働会館の新築時に行われた学術調査で、大阪では数少ない貝塚が見つか
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り、下層部縄文期は海水産マガキが、上層部弥生期は淡水産セタシジミが主で、
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河内湾→河内潟→河内湖へと変貌していったことが分かる。
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貝層から、40歳以上と推定される男性の屈葬人骨など約18体 |
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森之宮遺跡の歴史
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と生活用具が発見され、1体の人骨が展示されている。 |
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この人骨から、屈葬形式や、下顎骨の加工・抜歯の風習があ |
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ったことが分かった。 |
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展示品から、大阪平野の成り立ちや、人々の生活の様子が良 |
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く分かりなかなか興味深い。 |
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屈葬人骨
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出土品
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(13) 地下鉄中央線・森ノ宮
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(14) 城内焼亡埋骨墳(残念さん)
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ピース大阪の建物の、西隣の樹林の中に建っている。
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慶応4年(1868)1月の、鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が敗れた後、
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薩長軍と残った幕府軍との間の話し合いで、大阪城の無血開 |
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城が決まったが、それをよしとしない幕臣達が、本丸御殿に火
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を放ち、自分達は自害をして果てた。
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城内焼亡埋骨墳
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裏面
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官軍である薩長の隊員達は、それを武士の鑑であるとし、焼け跡から遺骸を取り出し、葬り、弔った墓石で
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ある。墓石の裏面に「薩摩・長州/建之」と彫られている。 |
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(15) においの広場
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大阪城公園内の西南部ある。
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昭和54年(1979)に、大手前ライオンズクラブによって、市民が自然に親しみ、憩いの
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広場になるようにとの願いをこめて作られた。
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この広場には、養護教育振興会によって、「コブシ」の花が1本づつ、卒業記念に植 |
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えられている。 |
においの広場みとり図
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(16) 永遠の平和を願って(植樹碑)
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においの広場の北側に、平成4年(1992)3月、大阪市傷痍軍人、同妻の会の皆さん
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が、平和への願いを込めて植樹し、この碑を建てたものである。
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平和の願いの碑
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(17) 玉造門跡
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大阪城東南の搦手口で、もとは桝形になっており、多聞櫓が建 |
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っていたが、戊辰戦争で落城した際に焼失した。 |
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桝形も、陸軍によって破壊され、その形をとどめていない。 |
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今は、玉造口として、大阪城への一入り口となっている。 |
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玉造口
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玉造口説明板
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(18) 蓮如上人袈裟掛けの松跡
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碑は、昭和4年(1929)、大阪市西区の由井卯三郎により建立されたもの
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であるが、石碑の横に立つ石版の刻によれば、「当時ノ寺跡ハ明ラカニ
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此地ニシテ上人ノ袈裟掛松ト稱スル老松ノ舊株猶存リ」と記されている。 |
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そばに、説明板が立てられている。 |
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蓮如上人袈裟掛けの松跡碑
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由来
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説明板
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(19) 一番櫓(重要文化財)
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大阪城二の丸の外堀の城壁に立つ南面隅櫓のうち、一番東に位置している櫓であ |
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る。全部で7基あったが、現存しているのは、この一番櫓と六番櫓だけである。
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もとは、総二階造りであったらしいが、寛文8年(1668)に大改造されて、今のような姿
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になり、昭和40年(1965)に解体修理をしている。
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一番櫓
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(20) 外堀と内堀
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大阪城は、本丸を囲む内堀と、二の丸・本丸内堀を囲む外堀 |
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とで二重に囲まれている。
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内堀の南部と、西南部は空堀となっており、その理由としては、
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敵を誘導するための戦略的な説と、地盤が固く、地下水が湧
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かないためという地盤説がある。
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内堀(東南角)の水堀と空堀
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東内堀
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空堀の東側の、水堀の近くに、石を積んだ細長い構造物が残っている。中は、人が一人かがんで通れる |
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位の空洞になっているが、何のために造られたものか定かでない。 |
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