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[ 見学地の解説 (1) ]
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(平尾修一著「上町台地の緑の森を訪ねて-パート4-」より抜粋引用)
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(画像をクリックすると大きな画像が見られます)
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(1) JR玉造駅 (明治28年(1895年)5月28日開業)
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「玉造駅」は、明治28年(1895年)5月28日に、大阪鉄道の天王寺ー玉造間が開通し
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たときに開業。同年10月17日、玉造ー梅田(現大阪)が開通。
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その後、1900年に関西鉄道が大阪鉄道を合併。 |
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関西鉄道は、1907年に国有化され、1909年10月12日に、天王寺ー大阪間が城東線
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になり、1961年4月25日、城東線・西成線を合せて大阪環状線となった。 |
玉造駅
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(2) 二軒茶屋・石橋旧跡
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玉造駅から、308号線に出た直ぐの東側に建っている。
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この辺りが、暗越え奈良街道の出発点で、「つる家」「ます家」 |
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の二軒の茶屋があったところである。 |
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石橋は、正しくは「黒門橋」と呼ばれ、猫間川に架けられていた |
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大阪最初の石橋と言われている。その旧跡碑である。 |
二軒茶屋・石橋旧跡碑
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説明板
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(3) 甦えるわが街(石板碑)
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大阪市・東地区の、戦災復興土地区画 |
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整理事業の完成を記念して置かれた石
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板碑で、308号線玉造交差点の、玉造筋 |
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を北に進んだすぐの西側にある。
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説明を聴く皆さん
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石板碑
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碑文
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(4) 伏見橋旧跡(碑)
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伏見橋は、猫間川に流れ込む支流(「井路」=流水の道)に架かっていた橋である。 |
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江戸時代から明治の終わり頃まで、この「井路」を利用し、猫間川まで荷物の運送を
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行っていたと言われている。
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「伏見湯」という銭湯の裏角に建っているが、昭和15年に建てられた旧碑が、自動車 |
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で破損したので、新しく建て替えられている。
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伏見橋旧跡碑
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(5) 松之木大明神
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玉造公園の南に位置する。
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かつては「唐塚」と呼ばれる塚になっていて、そ |
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れが訛って「烏塚」と呼ばれるようになった。
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稲荷の祠があり、松の大木があったことから、
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松之木を冠している。
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松之木大明神全景
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松之木大明神
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祠の前の手洗い石の横面に「天保十二年五 |
烏塚山石柱碑
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月吉日」と彫られてあり、1892年に寄進された
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ことがわかる。
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祠の台座石の前面に、「天満屋和兵衛」「菱
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屋覚兵衛」と彫られている。
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祠の台座石
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祠の前の手洗い石
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祠の前に「烏塚山 松之木大明神」と彫られた石柱碑が建っている。建碑は「昭和十四年三月吉日」、建 |
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てた人は「小竹事 森定松之助/寛介 七十六歳」である。 |
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森定氏は、大阪城天守閣工事を請け負った大林組の主任をしていた人で、大阪城の中にも、同じような |
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石柱碑を建てている。 |
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経緯はよく分からないが、森定氏の住居が天王寺区上汐町にあったところから、大阪城への中ほどにあ |
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る、自分の名前の松之助につながりのあるこの「松之木大明神」に、大阪城の工事の安全を祈っておら |
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れたのではないかとの推測もできる。 |
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(6) みーさん(天光大神)
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道の中央に、大きな榎の木が立っており、その根元に小さな祠が奉られている。 |
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この樹木は、もと、大きな家の庭にあったものが、樹に白蛇(?)が住み、伐ると祟りがあ |
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るということで、区画整理の際、樹木だけ残されたものである。
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「天光大神」と書かれた額を掲げた鳥居が立っており、地元では「みーさん」と呼ばれて、
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崇められている。
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天光大神
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(7) 玉造稲荷神社
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創建は、社伝によれば垂仁天皇18年(古墳時代)といい、下照
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姫命を祀って「姫ノ社」と呼ばれたのが始まりで、その後、稲倉
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魂命を祭神に、豊津稲生大明神と称されて、略して豊津神社
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と改めたと言われる。
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祭神は、「稲倉魂命」「下照姫命」「稚日女命」「月読命」である。
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南参道入口
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玉造稲荷神社境内
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[ 玉作岡(碑) ]
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南参道入口にある。
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碑の「玉作岡」は、大島靖大阪市長の書で、昭和49年9月に建て
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られた。
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裏面の碑文は、牧村史陽が識している。
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玉作岡(碑)
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玉作岡(碑文)
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[ 豊臣秀頼寄進の石鳥居 ]
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豊臣時代、神社は大坂城の守護神として、豊臣家の崇敬が厚く、慶長8年(1603)
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3月、秀頼が石の鳥居を寄進した。石の鳥居では、四天王寺西門の鳥居に次ぐ古
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いものであったが、平成7年(1995)の阪神淡路大震災のおりにひびが入り、危険な
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ため、鳥居の上の部分だけを、境内奥に移築して保存しているものである。
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秀頼奉納の鳥居上部
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[ 秀頼公胞衣(えな)塚大明神 ]
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胞衣(よな・えな)とは、卵膜、胎盤のことで、秀頼公の胞衣を納
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めた塚が、上町1丁目あたりに存在したが、戦災による損傷
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のために遷座されていたものを、大阪城築城400年となる昭 |
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和58年(1983)に、政・財・文化界有志により、本玉造稲荷神 |
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社境内に新装築碑されたものである。 |
秀頼公胞衣塚大明神碑
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説明板
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[ 千利休居士顕彰碑 ]
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利休屋敷が、神社南方の禰宜町にあり、豊臣秀吉に仕えていた頃、当神社の社殿
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で、毎年秋に茶会を開いていたゆかりで、昭和52年(1977)5月、大阪青年会議所や |
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菓子舗・茶道関係の有志によって建てられたものである。 |
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「和敬清寂」碑
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[ 秋田實笑魂碑 ]
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秋田實(1905-1977)は、近くの真田山で生まれ、子供の頃最も
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親しんだ遊び場が、本神社の境内であった。
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没後、演芸評論家の吉田留三郎氏を中心に、上方漫才師の
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間で碑を建てようという機運が盛り上がり、この地が選ばれた。
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傍の自然石に、辞世の歌が刻まれている。
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秋田實笑魂碑
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辞世の歌碑
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