藤澤さんの想い出
村松敬一郎
(大阪市道路補修課長)
1. はじめに
私は、藤澤さんと同じ大学の土木工学科を出て、同じ大阪市土木局(のちに建設局)に奉職した。橋梁課が初めての配属先であった、というのも同じである。私が新規採用されたのは昭和49年度であり、藤澤さんが退職されたのは平成9年度のことであるから、その間の23年は土木局(建設局)という「同じ釜」の“飯”を食っていたことになる。
しかしながら、藤澤さんがお亡くなりになって、藤澤さんとの接点を改めて思い起こしてみると、同じ職場になったのは意外に短期間であったと感じている。23年間のうち、最初の橋梁課での1年間と最後の(財)大阪市土木技術協会時代の3年間の、4年間だけであった。
それでも仕事上で何らかの関係があり、違う職場であっても藤澤さんと接触する機会が多々あり、ご教授いただいたことも数多い。ここでは思い出すままに、書き連ねてみたい。なおタイトルの所属名は、藤澤さんの所属名で書いている。
2. 橋梁課時代
最初の出会いは昭和49年5月のことで、土木局新採研修での千本松大橋建設工事の現場見学であった。そのとき私はまだ所属先が決まっておらず、事務・技術あわせて10名の大卒採用者の一人として、橋梁課西部橋梁建設事務所長であった藤澤さんの概要説明を聞いた。このときの思い出は、「藤澤さんを偲ぶ会」でしゃべったので、そちらの録音を聞いていただければと思う。
その後研修期間も過ぎて、私は橋梁課北部橋梁建設事務所へ配属になった。当時橋梁課には4つの建設事務所という出先機関があったが、同じ橋梁課とはいえ、別々の場所で執務していたので、「同じ机を並べた仲」という連帯感は感じられなかった。南港地区の橋梁建設を担当する西部橋梁と、淀川・神崎川のそれを担当する北部橋梁とでは、受け持ちの現場が離れすぎているという感覚もあった。また、どういうわけか西部橋梁だけは橋梁課長ではなく、別におられた土木部主幹(課長級)が実務をみるとされていたこともあり、新人であった私には一体感が湧いて来なかったことを思い出す。
ただ、私のいる事務所では、所長以下4名の年齢構成がかなりばらついているのに比べて、藤澤さんのいる西部橋梁では、ほぼ10年程度の開きでまとまりがいい雰囲気があり、うらやましかったのを覚えている。今考えると、これも所長であった藤澤さんの人柄がそう感じさせた要因のひとつであろう。
それから1年後の6月、係長級異動により藤澤さんは街路部立体交差課へ替わられることになった。私もさらに1年後の昭和51年5月、橋梁課第1設計係に移ることになった。
3. 立体交差課時代
事務分掌でいうと、立体交差課の仕事は、「都市計画街路事業のうち立体交差及び特殊構造物の設計に関すること」となる。つまり都市計画道路を整備するのに合わせて、橋を新設したり拡幅したりする必要がある場合は、街路部に所属する立体交差課が担当するわけである。私が籍を置いていた土木部の橋梁課は、道路事業予算や港湾局などからの予算配付で橋梁の架け替えや新設・改良などを業務としていたので、予算の出どころが違うだけで同じような仕事をしていたわけである。
しかしながら橋梁課の端っこに座っていた私と、街路部における橋梁設計担当係長であった藤澤さんとは打ち合わせするような内容もなく、この間は藤澤さんに関する明確な記憶がない。
4. 検査担当時代
昭和55年4月、藤澤さんは立体交差課から異動された。このときの藤澤さんの肩書きは「庶務課主査」で、後に昇格されて「庶務課長代理」となられたが、合計6年間この部署におられた。ここでの具体的な業務は、「検査」担当であり、工事竣功に伴う完了検査などを受け持っておられた。
私は橋梁課にいたが、時折自分が設計を担当した工事の検査に出向き、立会すること
があって、藤澤さんの検査ぶりを間近で拝見したことが何度かあった。設計も監督も経験された藤澤さんの指摘は的確に要点をついており、皆さんご存知の「あの笑顔」を浮かべながら婉曲な言い回しなどはしないで、明確に厳しく指摘されていたのを思い出す。受検する請負会社の人もたじたじとなっていたし、われわれ発注者側の監督担当者にも耳の痛い指摘であったが、藤澤さんは指摘するだけにとどめず、そのあとどのようにすればいいのかまで、丁寧に説明されていたのが印象に残っている。
検査担当の後、藤澤さんは古巣である街路部の橋梁設計を担当する技術主幹、続いて
橋梁課長になられたが、私は道路関係に転出したため藤澤さんとほとんど関係がなかった。
5. 土木技術協会時代
平成6年4月、藤澤さんは橋梁課長から昇格されて、土木技術協会理事兼技術部長に赴任された。その2週間後、技術部施設課長(7月からは技術課長)という肩書きをもらって、私は初めて藤澤さんの部下となった。以来3年間、私が北工営所へ転出するまで指導いただいた。
部下の目からみて藤澤さんは「理想的な上司」であった。というのは、大変不遜で失礼ないい方だが、土木技術協会時代の感想を簡潔に捉えられると思っている。自他ともに認めるせっかちな性格にもかかわらず、仕事の進め方は部下任せで自分から問い掛けることはほとんどしない。適当な時期に現状の問題点や今後の方針などをまとめて報告すれば、即座に了承されるか、代案を示されることが多かった。また忙しさにかまけて報告していない問題や懸案の進捗状況について、局幹部から藤澤さんに問い合わせがあった場合にも、的確に返答されていたようで、「このように答えておいたから」といわれ、冷や汗が流れ出るとともに感心させられることもしばしばであった。
この3年間はとにかく忙しかった。最初の1年目は設立されたばかりの道路公社との業務整理や業務移管に伴う残務整理、2年目は協会25周年記念事業の計画立案と建設局業務論文集の編纂業務、3年目は25周年記念講演会の開催準備や出版物の編集業務などで、日常業務に追われた。私自身が走り回っていて目先のことしか考えられなかった状態で、とても「課長としての仕事をしていた」といえる内容ではなかった。藤澤部長には大変迷惑をかけて雑事なども手伝ってもらった。
しかし少人数でまとまりもよく、ゴルフにボーリング、カラオケ、ゲートボールにい
たるまで、いろんなサークルに皆で顔を出して楽しんだのを懐かしく思い出す。藤澤さんはいつも皆の中心に座っておられて、紅い顔をしながらも皆の飲みっぷりをにこにこしながら見ておられた。お酒はそれほど強くはなかったが、お誘いすると格別の用事がない限り二つ返事で参加いただき、給料に比例した「傾斜配分」にも快く応じてもらった。まことに気前のいいスポンサーであった。
土木技術協会時代で印象に残っているのは、昼休みでの「ハム通話」であった。昼食の弁当を食べられた後、毎日のように1時までの間ハム仲間としばしの交信を楽しんでおられた。そのときにも更なる上級ハム免許の取得を目指すと聞き及び、「偲ぶ会」でも出ていたが、最終的には第1級アマチュア無線技士の資格も取得された由。
実は私自身もずいぶん昔に、親戚の「無線狂い」から「この道」へのお誘いを受けた
ことがある。「小学生でも合格しているので心配ない」との言葉とともに、最下級である「第4級(当時は電話級といっていたような気がする)」のテキストを貰ったものの、生来の電気オンチのゆえ「積ん読」で済ませてしまった。このような身から見ると、モールス送受信も何の問題もなく出来る「第1級無線技士」保持者というのは、「ただただ感心し、畏怖の念を持って尊敬する対象」でしかない。改めて藤澤さんの偉大さを思い知った次第である。
平成9年、私は北工営所へ転出した。このときに藤澤さんはCVV活動に参加されて
いたようだが、参加されるようになったきっかけを私は良く知らない。しかし、その後藤澤さんから直に聞いた話は、「技術協会の活動の一環と位置付ける必要があり、そのためには局の人間も参加させるようにしなければならないということになった。ついては現場事務所へ行ってアフター5は暇になったであろうあなたを推薦しておいた」であった。これが、私がCVVに参加するようになった真のきっかけである。
6.その後の藤澤さん
私がCVVに参加するようになった翌年、すなわち平成10年3月、土木技術協会の技術部長を最後に、藤澤さんは大阪市を退職された。その後しばらくして日立造船に再就職された。卒業されてからはOBの方々の「パソコンの先生」役を担われたようで、 「電話では解決できないので、だれそれさんの家に行ってインターネットの設定をしてくる」とか、「だれそれからパソコン購入の相談を受けている」とか、「頼まれたので、ウィルスにやられたパソコンを修復している」という話をよくされていた。「今はけっこう忙しい。大きな声ではいえないが、土木技術協会のときより今の方が忙しい。しかし忙しいのは日立の仕事のためではない」ともいわれていた。
そのときの藤澤さんは、いつものスマイルを満面にたたえながら、楽しそうに話して
おられた。京阪神に散らばる先輩諸氏のご自宅を訪問されて、自慢するわけでもなく淡々と作業する、藤澤さんの姿が目に浮かぶようである。
藤澤さんの口から不調の話を聞いたのは、平成15年の正月明けである。新年のあいさつに来られた藤澤さんを見て、少し痩せられたように思われたので、「少しほっそりされたようですが、調子はどうですか?」と尋ねた。いつものように「そんなことはない。元気、元気。」と返答されるものと思っていたのだが、意外にも「うん、最近調子が悪い。一度医者に行こうと思っている」という返事が返ってきた。藤澤さんが入院された、と聞いたのは、それから1か月余りしてからであった。自分ですい臓ガンであることを話されたということで、私の方に伝わってきた。2月の末に見舞いに行ったところお元気そうで、「病院の電話を使ってCVVのメールチェックをしているが、家のCATVと違って遅くていらいらする。大きな添付ファイルがあれば気の遠くなるような時間がかかる」という話をされていた。また、もう少しすれば退院することになっている、ともいわれ、ホッとしたのを覚えている。
しかし、その後復帰されることもなく、亡くなられた。大変残念な結果であった。亡
くなられる直前の話を「偲ぶ会」でご家族から聞いたが、藤澤さんの生への執着心がひしひしと伝わってきた。また、病院で挙げられたご子息の結婚式での様子をお伺いしたとき、最後は満足した思いで旅立たれたのであろうと感じ、大変感動した。
知っていることを自慢するふうでもなく、ざっくばらんに教えてくださった藤澤さん、後輩のためになるのなら、自身にとってもいいにくいことでもはっきりと話してくださった藤澤さん、自分のことのように懸案事項の解決のため一緒になって悩んでいただいた藤澤さん、このような藤澤さんはもうこの世におられない。今でもふと、「この話は藤澤さんに聞けばすぐに分かる」と思える事項が出てくるが、もうどうにもならない。藤澤さんの周辺にいた人に聞いて核心を類推するしかない。そんなときにも、できればあちらから私の頭の中にヒントを吹き込んでほしい、という気持ちになる。
藤澤さん、安らかにお眠りください。そして後輩が困ったときに、インスピレーションの形で啓示してください。私の厚かましい願いをかなえてくださるよう、よろしくお願いします。