6 安政津波遭難者供養塔(あんせいつなみそうなんしゃくようとう)・
大地震両川口津波記(おおじしんりょうかわぐちつなみき)
岩崎運河に架かる大正橋を東へ渡った橋詰めに、正面に「南天阿弥陀仏/南無妙法
蓮華経」、背面と右面は、つづけ文字で「大地震両川口津波記」が刻まれた石塔があり、
その横には、「大地震川口津波記」を書いた掲示板とその説明板が立てられています。
○安政津波遭難者供養塔
安政年間(1854年〜1860年)には、日本全国で13回にも及ぶ大地震が発生しましたが、
大阪も例外ではありませんでした。
まず、安政元年6月13日の午の刻(正午頃)と未の刻(午後2時頃)に強震、14日の子
の刻(午前1時頃)にも強震に続く約35回の地震。そして、11月4日には14日の地震より
強い地震が起こり、特に4日の辰の下刻(午前9時頃)と5日申の刻(午後5時頃)の2回
が最も激震でした。
その上、5日の夜9時過ぎ、にわかに大阪湾より海嘯(かいしょう=河口に入る潮波の前
面が垂直の高い壁状になり、砕けながら川上に進む現象)が襲来し、一瞬の間に多くの人
が波に呑まれ、その惨状は甚大でした。
この地震・津波により犠牲となった人々の霊を供養するために建てられたものが、「安政津
波遭難供養塔」です。
この地震のとき、人々は慌てて戸外に逃げ、道路や蔵屋敷浜に苫(とま)や莚(むしろ)、ご
ざ等で屋根を作った仮小屋に野宿し、あるいは茶船、上荷船等を借り入れて之に乗って難
を避け、大阪中で家の中に居るものは一人もないというような状態でした。
その騒ぎと恐怖の上に、海嘯が襲来し、大船小船の別なく一瞬の間に微塵に破壊しさった
のですから、その惨状は、真に想像するだけでも甚大だったのです。
正面 裏面
○大地震川口津波記
「大地震川口津波記」は、地震・津波の惨状を記し、ついで地震や津波に対する心得を
後世の人に伝えようと、石塔だけでなく板にも書き認めています。
「都而(すべて)大地震の節は、津波起こらん事を兼而(かねて)心得、必ず船に乗るべから
ず」と戒め、「火用心肝要也」と注意を呼び起こし、さらに、「倭人の心得、且つ溺死者追善
のため、旁(かたわら)有りの儘(まま)拙文にて記し置く。願はくば心あらん人、年々文字よみ
安きよう墨を入れ給ふべし」
と結んでいます。