24 大浪橋勘助島渡しの碑(おおなみばしかんすけじまわたしのひ)
大浪橋の西北ノ高欄のそばに、「道標」が建てられています。刻まれている文字は、「(正面)わたし
勘助島,(右面)すくちかみち なんば 今宮 天王寺、(左面)住吉あ三田池(=阿弥陀池) 道頓堀」で、
この辺りに渡し場があり、古くからの交通の要地であったことが想像できます。
道標 (「大浪橋」北西端)
○泉州早渡船附場所の碑
ところで、昭和35年(1960年)3月に発行された「大阪市内における建碑」の中で、大正区の大浪橋
橋上にある碑として、「泉州早渡船附場所」があり、「安永9年(1778年)3月/天保7年(1838年)3月改
木津川組」と刻まれた碑が立っていたようです。
道標カが替わっているのは、なぜでしょうもしかすると、現在の道標は、難波島渡しの所にあったのですが、
もう人が渡らなくなった上、旧道標が事故等で粉々に砕けてしまったから、難波島の道標と置き換えたの
ではと思ったりしています。
「大阪の橋」の本には、この付近に、「落合下の渡し」があったが、橋の完成と同時に廃止された」とかか
れています。
(「泉州早渡船附場所」の碑は、浪速区側にあるそうです)
参考:大正区の町名の由来
○泉尾(いずお)
この地は元禄十二年(1699年),三軒家浦を北村六右衛門が開拓して作った新田。
六右衛門の出身地、和泉国大鳥郡鋸尾村の泉尾をとって泉尾新田と命名された。
○恩加島(おかじま)
大正区の多くの新田を開いた岡島嘉平次の名に因んでその功績をたたえたものという。
ちなみに岡島家は、代々嘉平次を名乗り、初代から三代までに開いた新田は十七を数えるという。
○小林(こばやし)
岡島嘉平次が開いた小林新田からというが、なぜ小林とついたかは不明。
○平尾(ひらお)
明和8年(1771年)に平尾与左衛門が開いた平尾新田より
○鶴町(つるまち)
大阪湾築港埋め立て時に造成された。大正8年(1919年) 3月からの町名。
「鶴」の起こりは、万葉集の編纂に携わった田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が聖武天皇の「難波宮」
の光景を、次のように歌ったことによる。
『塩干(ふ)れば 葦辺に騒ぐ白鶴( 百鶴とも)の 妻ある声は 宮もとどろに』
この歌の中の「鶴」をとって町名にした。
( 「大阪春秋」「大阪史蹟辞典」参照)