20 難波島(なんばじま)パネル

  江戸時代の名所案内書である「芦分船(あしわけぶね)」によれば、『(難波島は)難波に
 つづきたる所也。昔日灘波の住人ひらきし所なれば此島の名とするにや』とあり、挿絵として
 船造りの風景を載せています。

  その後、安治川の流れを一直線にしたように、元禄12年(1699年)、木津川の流露を一直
 線にするために、河村瑞賢が島の中央部を開削し、難波島が東西に分かれ、東側を「月正
 島(がっしょうじま)」(浪速区)と呼び、西側を「難波島」と言うようになりました。

  「摂津名所図会大成」に『木津川にありこの地船大工職多く常に海船を作事す』とあり、
 第二次大戦後まで難波島と周辺の川沿いには造船所が多くありました。

 難波島の西側の三軒家川は、一部埋め立てられ、この川に架かっていた百済橋は廃橋に
 なりましたが、その橋の橋柱が一部残されています。

  ここから少し南へ下った三軒家東3丁目と対岸の浪速区木津川2丁目間75mを結んで、
 大阪市営の「難波島渡し」が運行されていましたが、昭和57年(1982年)に廃止されました。