11 木津川水門・三軒家水門(きづがわすいもん・さんげんやすいもん)


○ 水門について

  安政津波殉難碑で述べた通り、大阪は、地震の後の津波や高潮などばかりでなく、台風に
 よる洪水などの自然災害に襲われる事が多くありました。特に、「室戸」「ジェーン」「第二室戸」
 台風は、大阪に高潮による大きな被害をもたらしました。このため、川や海の護岸工事では、
 橋の手前の道路が盛り上がったり、川の堤防が異常に高いことからもわかるとおり、嵩上げ工事
 が行われたのです。

  しかし、高潮の被害がない、より安全な生活を保障するためには、河川の沿岸に沿って高さ
 数mの壁を張り巡らさなければなりません。これでは、都市景観を損ねるだけでなく、沿岸荷役も
 機能しなくなり、その上、多くの橋梁を嵩上げしなければならず、橋梁に接続する道路も改造し
 なければなりません。これは、都市の交通状況を考えるとき、とても実現が不可能なことです。

  そこで採用され設置されたのが、従来の「防潮堤方式」を発展させた、『防潮水門方式』です。
     
  『防潮水門方式』というのは、河川の中・下流部に水門を設置して、高潮を堰き止め水門より
 上流へは高潮を遡上させないようにし、下流には、必要な高さの防潮堤を設けるという方式です。

  ここで言う水門には、「アーチ型水門」と「防潮樋水門(ぼうちょうひすいもん)」とがあります。 


○ 木津川水門・・・「アーチ型水門」

  渡し船に乗り、木津川の上流(北側)を見ると、アーチ型をした橋のような構造物が見えます。
  これが、木津川水門です。
  この水門は、アーチの部分を上流側に倒し沈めて、高潮を防ぐ仕組みになっています。

  この水門は、常時開いていますが、毎月1回程度開閉試験運転のため閉められます。

        
                       木津川水門


○ 三軒家水門・・・「防潮樋水門」

  三軒家水門は、 三軒家川(現在は上流部分が埋め立てられている(・・20「難波島」パネル
 の項参照・三軒家運河とも言っています)の出口に設けられた、防潮樋水門です。高潮が襲って
 きたとき、扉を落とす(閉める)仕組みになっています。 

        
                       三軒家水門


◎三軒家川と船囲い場(船圍場)

  三軒家川は、三軒家と難波島との間に開削された人工の川です。
 木津川・尻無川・安治川は、船虫(カキ)を駆除するのに効果があるといわれ、毎年冬には、
 北国航路の和船が休航、係留する習慣がありました。特に木津川は一千艘以上になり大へ
 ん混雑していたため、船だまりを造る必要がありました。

  西区西長堀の長尾新兵衛が出願して、明治12年(1879年)4月から、三軒家と難波島の間
 に川を開削する工事に取り掛かりましたが、コレラの流行や請負業者との紛争で、翌13年(188
 0年)免許取り消しの願い出をし、 そのため、 以降の工事を大阪府が事業を継承し、 明治14年
 (1881年)末に完成させました。広さは、 53,940坪(178,000u)ありました。しかし、明治41年(19
 08年)以降、 港湾整備が進んだためもあって、利用が減り、後、貯木場として利用されました。
 
  河川や下水道で想定している以上の豪雨が降った場合や、地震による津波が発生した場合
 に備えて、各自治体では、浸水が予想される区域と避難時の心得を示した「防災マップ」が作成
 されています。

  いざという時に、家族がどこに逃げるかや連絡方法を決めておくと共に、非常持ち出し品などを
 非常持ち出し袋に入れておくなどの備えをしておくことが大切です。