3 大正橋(たいしょうばし)
大阪の島と言われ、渡し以外に川を渡るしか手段がなかった当地と都心を繋ぐルートとして、
大正4年(1915年)市電開通とともに架けられた大正橋は、当時わが国で最も長いアーチ橋(支
間長90.6m)で、当区名の由来となっています。
戦後、地盤沈下等のため、アーチの変形と揺れがひどくなり、都市計画道路泉尾今里線の拡
張整備に伴い、新橋が昭和49年(1974年)に完成、下流側の高欄には、ベートーベンの交響曲
第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされています。
五線譜の高欄 高欄に取り付けられた音符
「大正橋」の説明パネル
◎「歓喜の歌」がデザインされたいきさつ
二代目の橋の設計者である日種俊哉氏は、「八百八橋 浪速の春」の中で次のように述べ
ておられます。(一部略して記述)
「・・高欄の設計は、大阪のような都会の真ん中では近代的な形のものにしなければならない。
そこで、私は、「音楽」をデザインに生かすことを思いついた。高欄を五線譜に見立て、横の五線
をアルミ製のパイプで表し(・・現在は安全のため6本)、音叉を型どった断面を持つ束柱で小節を
区切り、楽譜をつくりあげるというアイディアであった。
・・音符の音の長さは、四角形のアルミ板の面積で表すことで乗り切った。
・・選曲については、大阪民謡、わらべ歌、流行歌など大阪にゆかりのある曲などいろいろ探し
てみたが、移調してでも五線の内に収まるものとなるとなかなか適当なものが見つからない。
そこで条件を満たしている作品として、“歓喜の歌”の登場となった。・・・
「オタマジャクシ」の移調作業は、私の女房の援助に頼った。
・・この“歓喜の歌”は、橋の中央部に配されている。80mの長さ全体に音符を配置しようという
意見もあったが、80mにわたり延々と続くよりも真ん中あたりにさりげなくということになった。
・・この音符は下流側だけにあるのは、大正橋の担当が途中で変わったため。」
「さりげなく」の言葉の中に、日種俊哉氏の人生哲学を教えていただいたように思います。
“歓喜の歌”のアイディアを日種氏の了解を得て、この歌の楽譜を高蘭に取り付けている橋は、
愛知県知多半島の中ほど、阿久井町(あぐいちょう)にある「オアシス大橋」(全長560m)です。
今年の2月8日、以下に述べる大阪俘虜収容所に関わって、市民によるベートーベンの第九
の発表会が行われましたが、大正橋の“歓喜の歌”と何かの糸で結ばれていたような気がしてな
りません。
○大阪俘虜収容所碑(平尾亥開公園内)(おおさかふりょしゅうようしょひ(ひらおいびらきこうえん
ない))
平尾新田は、大坂江戸堀《現西区》の平尾与左衛門が開発し、明和8年(1771年)に幕府の
検地を受けました。その地域の中に「亥(い)」の年に開発されたことに因み、「亥開」と呼ばれる所
《現在の南恩加島抽水所(みなみおかじまちゅうすいしょ)あたり》がありました。この地名から名称
を取った「平尾亥開公園(ひらおいびらきこうえん)」の東側で木津川に面したところ《現在の南恩
加島1丁目》に、明治41年(1908年)、ペスト患者隔離所が新設されました。その施設は、明治42
年(1909年)の北区の天満を火元とする、いわゆる「北の大火」と呼ばれる火事で罹災した延べ約
22,000人の市民を収容し、所内には小学校も開設されたことがありました。
その後、第一次世界大戦の結果、大正3年(1914年)11月、中国にいたドイツ兵などの捕虜の
ための収容所が日本各地(12箇所)に設置された時、大阪においてはこの施設が「大阪俘虜収容
所」として使用され、軍人など760人を収容しました。収容所の捕虜たちは、朝夕2回の点呼を受
ける以外は、労働等はなく、読書、絵画、演劇のほか、いろいろなスポーツを楽しんでいました。