( じょうあんばし )
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[ JYOAN BRIDGE ]
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なにわ筋の土佐堀川に架かる橋である。
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常安の名からすぐ思い浮かぶのは江戸時代初期の豪商淀屋常安のことである。「大阪市史」には「淀屋は
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本姓岡本氏、元祖与三郎常安北浜十三人町に住し、材木売買を営み、元和偃武の後中之島を開拓して之に
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居る。故に常安町・常安橋の名あり。」と書かれ、常安橋が淀屋常安の中之島開発に伴って創架されたと受
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け取れる。しかし江戸時代前期の地図では同位置の橋の名を「田辺屋橋」としており、古くはそう呼ばれてい
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たらしい。
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淀屋常安は中之島の開発を出願し、淀屋請所を整備した。元和5年(1619)ごろには形が整ったようで、そ
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の後、5代目辰五郎の代まで繁栄する。取り潰しののちも常安請所は常安町となり、常安の名は長らく残るこ
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とになる。
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江戸時代の中之島一帯は蔵屋敷が建ち並んでいた。常安町も同じで蔵屋敷出入の物資運搬のために橋
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が必要であった。そのため橋の維持管理はこれらの蔵屋敷を事実上運営していた名代、蔵元などの有力商
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人の手でおこなわれていたものと思われる。
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常安橋が近代的な橋に変わったのは第一次都市計画事業によってで、計画道路玉江橋筋線の延長とし
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て、橋長69.9m、幅員11.4mの3径間ゲルバー式の鋼桁が架けられた。戦後になって下流側にほぼ同じ幅の
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橋が新たに架けられている。
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全景 (土佐堀川上流側から)(船上より)
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全景 (下流の「越中橋」より)
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側面
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中央部
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桁下構造
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歩道
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(漢字表示)
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高欄柱
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(ひらかな表示)
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製作標 (石川島播磨重工業株式会社)(1966年6月)
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道路面 (右岸側より)
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道路面 (左岸側より) (北行き車線)
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