( とよさとおおはし )
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[ TOYOSATO BRIDGE]
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淀川に架かる橋である。
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奈良時代、聖行基は全国に布教しながら各地で優姿塞(うばそく)を組織して灌漑施設や道路、橋の建設
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をしたが、その一つとされる高瀬大橋は、現在の豊里大橋の近くに架けられたと推定されている。このよう
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な行基の活動について、想像以上に大きい計画のもとに進められていたとする見方があり、高瀬大橋は、生
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駒山から昆陽(こや)の地を結ぶ道の一部をなすとされている。
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豊里大橋の近くには、江戸時代前期から続く「平田(平太、へいた)渡」があった。この渡しは、明治37年
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(1904)の淀川改修により場所を移し、また、経営が個人から村営に代わったものの、名はそのままに存続。
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明治40年(1907)には府営に、大正14年(1925)には大阪市営となり、このときに無料となっている。
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昭和35年(1960)には都市化の進展から需要が増し、それまでの手漕ぎから発動機船に替えられ、最盛期
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には1日約3700人と自転車を運んだが、豊里大橋の完成に伴って長い歴史の幕を閉じた。
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豊里大橋は、昭和45年3月(1970)、日本万国博覧会の関連道路の一環として整備された。形式は大阪市
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では初めての斜張橋で、中央スパンは216mで、当時日本最長であり、コンピューターによる構造計算や新
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しい材料など技術の進歩なしには出来ない構造であった。
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全景
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主柱部 (左岸側)
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ケーブル アンカー部
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橋上部
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橋上部
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橋名鈑
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「平田渡しの跡」碑
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