21 中村勘助之碑(八坂神社境内)(なかむらかんすけのひ(やさかじんじゃ
                      けいだい))

  中村勘助(木津勘助)は、慶長15年(1610年)木津に移住、姫島(今の三軒家) を開発し、また
 木津川を浚渫しました。(一部前述)
  大阪の水利のために尽くした功績を讃えて中村勘助が京都八坂神社の分霊を勧請した上の宮
 八坂神社境内に、「中村勘助彰徳会」が、大正6年(1917年)12月に、「中村勘助源義久彰徳
 碑」を建立し,背面に勘助の業績を刻みました。(碑文は後述)

  ところが、昭和20年(1945年)3月の戦災により社殿を焼失。
  昭和32年(1957年)5月に社殿が再建された折、旧碑の位置が建物の裏側になり、また、空襲
 時に炎を受けたためか、剥蝕もひどくなってきていました。
  そこで、昭和54年(1979年)7月の御鎮座330年のおり、「中村勘助之碑」が新たに建てられました。

             
                         八坂神社

         
                       「中村勘助之碑」


◎中村勘助源義久彰徳碑の背面の刻文

  「中村勘助、姓は源、諱(いみな)は、義久、新田義貞の末流にして資性剛直沈勇なり、その木
 津村に住むの故を以って、時人之を木津勘助と呼ぶ。豊臣家摂海の要害を完備する為、姫島即
 ち今の三軒家北岸に軍船碇繋所を建設するに方(あた)り、勘助船舶安全の施設を以て大阪開発
 の要務なりとし、慶長十五年(1610年)沿岸一帯に堤防周築の計を立て自ら奮って其工を起こす。
 爾来刻苦励精万難を排し、遂に之を完成し、此に倚(よっ)て内田圃を開き、外風波を防ぎ船舶の
 碇泊始めて安きを得、豊臣家その功を賞し、此の地を勘助島と称せしむ。勘助又大阪市内船楫
 (せんしゅう=楫(かじ))の便を増進せんと欲し、寛永七年(1630年)木津川を浚渫す。
 (中略)
 寛永十八年(1641年)飢饉あり、飢孚(きふ=飢えのとりこ)道塗(どうと=道々)に満つ。而(しか)も幕
 府の処置其の宣きを得ず。勘助憤慨措く(そく・おく=そのままにしておく)能(あた)はず。挺身之が救
 済を図りし可熱誠の激発するところ其の所為(しょい=ふるまい)却って規制を逸し、為に罪を獲て斬
 (ざん)に処せらる。時に万治三年(1660)十一月二十二日、年七十有五。惟ふに勘助は独り三軒
 屋村の開祖たるのみならず、亦大阪における水利の恩人なり。乃(すなわ)ち此に碑を立て其の巧を
 勒(ろく=刻む)し、以て後毘に傳ふ。
                                 山口 眞臣 識/ 清水 南岸 書」

  (「三軒家東小学校百周年記念誌」に掲載されているものを書いた、
                                    [大正区役所資料]引用・参照)


◎ 木津勘助翁(銅像)(きづかんすけおう(どうぞう))

  浪速区敷津西1丁目2番にある、敷津松之宮・大国主神社内に、写真のように、左手に設計
 図を持ち脚絆(きゃはん)姿の木津勘助の銅像が建てられています。
  この銅像は、昭和29年(1954年)10月に「木津勘助翁彰徳会」によって再建されたもので、台座
 に貼られた碑文には、「第二次世界大戦時に旧像が金属供出にあったためなくなり、再建された」
 とあります。

  戦前の銅像は、「浪速区史」所載の撰文の日付では、大正十年(1921年)十一月二十六日と
 あり、大正区の「中村勘助之碑」よりあとに建てられています。

  尚、この銅像の碑文は、田村 継氏が撰をしていますが、この文では、中村勘助は斬されたこと
 にはなっていません。
  
また、浪速区のホームページ「区のスポット・名所・旧跡」でも、現在の大正区に流されたとありま
 す。中村勘助が義民といわれる所以を考える資料になるかとも思いますので、その撰文の一部を書
 き留めておきます。


○旧銅像の撰文

  「寛永十六年(1639年・・・三軒家東の撰文と異なる)近畿ノ稔ラス、塗ニ餓窮アリ、翁、産ヲ傾ケ
 自ラ之ヲ救助シ、旦(且つ?)ツ官ニ賑救(しんきゅう=貧困者に金品をほどこして救う)ヲ求ム、吏浚巡
 (しゅんじゅん=決断できないでぐずぐずすること)為スナキヲ慨(なげ)キ蹶然(けつぜん=行動のにわかな
 様子)起チテ官倉ヲ発キ窮民ニ賑給シ、直ニ官ニ詣リ其ノ罪ニ服センコトヲ乞フ、官、特ニ死一等ヲ
 減シ葦原(現在の大正区)に流ス」
    (「大阪市内における建碑」(昭和35年)並びに、敷津松之宮/大国主神社由緒畧紀参照・
     引用、読み仮名及び意味は筆者注))

  加えて、この「敷津松之宮/大国主神社由緒畧記」には、「翁が晩年に至るまで黙々と義田を
 拓くなど平穏な余生を送り、万治三年(1660年)11月26日七十五歳の天寿を全うして没し、木津
 唯専寺に眠る}とあります。


○漢詩碑(かんしひ)

  この銅像の右植込みに、元関西吟詩同好会会長の宮崎東明氏が、昭和二十九年十月に
 銅像の再興序幕を寿いで建てた七言絶句の漢詩碑があります。
 ( )は読み下し文です。(読み下し文は、神社元老の藤枝氏にお聞きしました。

   「 屡救窮民自率先 木津地畔亦開川 嗚呼偉大助翁徳 義侠精神萬古伝」
    (しばしば窮民を救う 自ら率先 木津の地畔 また川を開く ああ偉大なり 助翁の徳  
     義侠の精神 万古に伝う)  」