19 近代紡績工場発祥の地(碑)(きんだいぼうせきこうじょうはっしょうのち(ひ))

  この碑は三軒家東3丁目にある「三軒家公園」内に、昭和36年(1961年)3月、大阪市政70周年
 を記念して、23番目に建てられた顕彰史蹟(碑)です。
  幕末までの紡績は、農家の副業による家内工業(手紡ぎ・ガラ紡)にすぎませんでした。
  しかし、明治16〜17年になって日本の文化が進み、服装も華美になってくると織物の輸入も増え、
 輸入総額の約40%近くが綿糸や織物が占めるまでになっていました。
  政府は、輸入防止のため、国内機会紡績の振興を決め、愛知・広島に官営工場を作ったり、民間
 に紡績機を安く払い下げたりして、紡績所をつくりました。
  ところが、これらの工場は規模が小さく、動力としての水源利用に多大の費用がかかり、原料が内地
 の短繊維の内地綿に求めていたため営業不振に陥っていました。
  このような時、2000錘紡績を批判し、もっと大きな工場を設けたいと要望が出てきました。そして、
 明治16年(1883年)7月に、東京・大阪の財界人渋沢栄一や藤田伝三郎らが出資した大阪紡績会
 社(通称三軒家紡績)が、当地「三軒家村」で操業を始めました。
  「三軒家村」に工場建設を決めた理由としては、職工募集が容易だったからだけでなく、古くから船
 着場として賑わい、原料・製品の運搬が便利だったためです。
  操業後、生産力を高めるため、深夜業が始められました。初めのうちはランプを使用していましたが、
 明治18年(1885年)末には、アメリカから購入した発電機を採用するようになりました。当時わが国で
 電気を利用したのは、電信以外になかったころなので、「ひもランプ」とも呼ばれ不思議がられました。
  レンガ造り4階建ての紡績工場に一斉に電灯がつくと、不夜城のように浮かび上がり、市内の各地
 から会社へ見学の申し込みが殺到し、3日間の公開で、5万人もの見物人が押しかけたそうです。

  その後、工場は瞬く間に発展して業界に進出し、大正3年(1914年)、昭和6年(1931年)には他社
 と合併し、世界最大の紡績会社になりましたが、戦争激化とともに軍需工場に転換させられ、昭和20
 年(1945年)3月の空襲で焼失しました。

                   
                       近代紡績工業発祥の地碑

   
                    「近代紡績工業発祥の地」説明パネル


※ 大阪市顕彰史蹟(おおさかけんしょうしせき)

  大阪市政70周年を記念して、歴史・文化のゆかりの地に、顕彰碑を設けたもの。現在、川口居留
 地跡(17番目) 毎年3基ずつ設置し、大阪の歴史に関する理解を深めてもらう一助にしています。
  1番目の碑は、北浜の「花外楼」入り口にある、「大阪会議開催の地」です。平成15年3月現在で
 164基建てられています。
  大正区では、この碑のほかに、150番目の「尻無川櫨(はぜ)堤跡」(・・泉尾6丁目 泉尾公園内)と、
 161番目の「木津川飛行場跡」(・・船町2丁目)の碑が建てられています。