[ 天満橋 ]
( てんまばし )
[ TEMMA BRIDGE ]
谷町筋の大川に架かる橋である。
天満橋・天神橋・難波橋は江戸時代以来、大坂の町にとって最も重要で、最も親しまれてきた橋である。
当時としては最大級の橋で、この三橋は浪華の三大橋と呼ばれた。江戸時代には、ともに公儀橋に指定さ
れ、幕府の直轄管理となっていた。大坂の市街地を南北に結ぶ三大橋は市民の生活にも密接に関わる橋と
なり、都市発展に重要な役割をはたした。東西の町奉行所が、天満橋の南側にあり(のち西町奉行所は本
町橋の東北詰へ移転)、谷町筋から東側には様々な役所があった。橋の北側には役所の倉庫や町与力の
屋敷があり、天満橋はこれらの役人の通勤経路や役所間の連絡にも利用されたと考えられ、官の性格が非
常に強い橋であったと言えよう。
明治になり、天満橋・天神橋はほぼ同じ経過で架け換えが行われた。明治18年7月(1885)初めの大洪水
によって両橋とも流失し、その復旧事業として、両橋ともに鉄橋に架け換えられた。この鉄橋の主要部材は
天神橋と同じく、全てドイツ製であったが、鉄製の高欄、照明柱、橋名額は両橋とも国産品が用いられた。
橋名額は現在も北詰の公園内に保存されている。
現在の天満橋は、昭和10年(1935)に重厚なゲルバー式鋼桁橋に架け換えられたものである。この桁の形
状に対して当時の担当者が「のびのびとした、鳥が翼を広げたような形」と表現したように、景観上バランス
のよい桁橋である。
戦後、自動車交通の発達により天満橋は、交通上のネックになり、昭和45年(1970)高架橋が建設され
た。在来の天満橋の上に重ねる型式とし、設計荷重としては旧市電の軌道敷部の荷重と高架橋のそれと置
き換えるように考えられた。さらに、平成元年(1989)に旧橋部が改装された。

全景
   全景 (パノラマ)
上流側
下流側
桁下
アンカー部
桁の橋名
 製造標「大阪鐵工所」(現「日立造船」)  (下流側右岸端)
高欄柱の橋名
道路面

[ 毛馬桜之宮公園(南天満公園)内にある史跡碑 ]
( 「将棊島粗朶水制跡」碑 )
正面
左側面
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説明板
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( 「淀川三十石船舟歌」碑 )
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( 「天満青物市場跡」碑 )
正面
右側面
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( 旧町名継承碑 )
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