[ 十三大橋 ]
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( じゅうそうおおはし )
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[ JYUSOH BRIDGE ]
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淀川に架かる橋である。
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十三という地名は、旧成小路村(現在の淀川区新北野付近で多くの部分が河川敷となっている)の字名の
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一つで、十三の名の起こりは条里制の十三条に由来するという説もあるが、淀川の渡しのうち、上から数え
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て13番目であったこととする説が有力である。「中津町史」によると、江戸時代以前から”十三渡”があったと
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される。
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この地に初めて橋が架けられたのは明治11年(1878)のことである。江戸時代には淀川や中津川には1本
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の橋も架けられていなかったが、明治になって架橋の運動が起こり、この気運の中で成小路村村民13人の
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共同経営の橋として、10年9月に架橋の許可を得、11年3月起工、同年7月に竣功した。私設橋であったため
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有料であった。
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この付近で新淀川の開削工事が始まったのは明治32年、これに伴い明治42年5月に鉄橋が完成した。
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大正期に入って大阪の都市域は急速に拡大し、大阪市では第一次都市計画事業を策定、大阪府でも十
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大放射路線の計画事業をスタートさせた。
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現在の十三大橋は、旧能勢街道を府県道大阪池田線として拡幅整備するのに伴い、昭和5年1月(1930)
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が採用され、また、アーチ部の基礎にはニューマチックケーソンが用いられた。
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本橋は大阪を代表するアーチ橋の一つで、いまでは、淀川の代表的な風景の一つとなっている。
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下流側
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上流側
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中央部
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下部
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高欄柱・道路面
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橋梁標
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標柱 (「昭和6年12月架設」)
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十三大橋説明石
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( 画像をクリックすると拡大して見られます )
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「交通安全地蔵尊」 (右岸上流側角)
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